生命の存在とはエントロピーとの果てなき戦いである
Posted by yoosee on Clip at 2007-02-15 22:00 JST1 finalventの日記 - いうまでもなく地球は滅亡する
それにしても、必ず滅亡するとわかっていてなぜ地球生命は存在するのだろうか。finalventの日記 - いうまでもなく地球は滅亡する現実には「生命って、そこまで考えて無いんじゃね?」と思わなくもないが、例えば「ディアスポラ/グレッグ・イーガン」では、情報生命体と化した人類(ないし人類の延長上に存在する知性体)が、この時空の宇宙寿命を越えて存在・思考する姿が描かれている。単なる SF のお話ではあるが、知性の電子化はこの先 50年ほどで起こり得る話かなと思う。それを生命と呼ぶかはその時に議論になるのだろうけど。
仮に人類がそこまで辿り着かなくても、どこかの宇宙のどこかの星のどこかの生命はそうした存在まで辿り着くかも知れない。そう考えると、生命と知性の誕生と成長というのは、実はあちこちで行われている壮大な生き残り実験のように感じなくもなく、人類もそのひとつなのであろう。
そういう意味では、生命の存在というのはこの世界を支配しているエントロピーとの永遠の戦いなのかもしれない。
永遠の命とはなにかを SF から考察する
Posted by yoosee on Clip at 2006-10-30 23:42 JST1 分裂勘違い君劇場 - 「人は必ず死ぬ」はどこまで本当か?
元記事は途中から発散してしまっているが、不老不死の話を頑張りたいのならその手の SF を一通り読むのも面白い。特に「ターミナル・エクスペリメント」辺りをお薦めしたい。知性の永遠性と言う視点では「ディアスポラ」もいい。星新一のショートショートでは(題名を失念したが)、将来での復活を信じて仮死状態になったが、未来では「安全な死後の世界への移行」が実現し、誰も不老不死など考えなくなったために仮死状態の人だけが幸せな死後に行けなくなってしまう、なんていう話もあった。さて、SF での不老不死では大体よくある段階として以下のようなものになる事が多い。
- クローンや機械の体など、肉体交換による延命(脳に寿命がくるので不死にはなれない)
- ナノマシンによる修復(壊滅的な事故に弱い)
- 人体の電子化(人類システムの滅亡に弱い)
- 精神のエネルギー生物化(大抵は最終段階。宇宙滅亡の弱い?)
と、SF ばかり引いたけど哲学はこうした問題になんらかの回答を出しているのかな。
ディアスポラ - グレッグ・イーガン著
Posted by yoosee on Review at 2006-04-23 23:42 JST1 ディアスポラ 読了
(6レビュー)もう何と言っていいのか分からないが、個人的には人生のベスト 3 に入る SF 作品と断言できる。冒頭の電子生命体"孤児"が誕生し自我に目覚めるプロセスといい、5+1次元生物の生態といい、「長炉」の描写といい、はたまたブラックホール量子物理理論の展開から高次元宇宙の旅といい、とても人が想像だけで作り出したとは思えないほどに生き生きとした描写は、その世界を覗き込んでいるような感すら覚える。難解ながら具体的な描写で描かれたその世界のイメージが自分の脳内に構築されていくと言う読感は SF 読みの正に醍醐味そのものであり、脳が汗をかく(ほど働いている)と言う快感を得られる本でもある。
29世紀の電子化された人類が住む地球に始まり、何兆もの宇宙を越えて数百億年の時間を旅する姿はあまりに壮大で涙が出そうになるほど。確かにハードSFの骨肉の部分をそのまま表に晒し出しているこの作品は全く持って万民向けではないが、SF好きならば絶対に読んでおくべき本のひとつではなかろうか。
ただ物理学という視点から真面目に読むと、物質宇宙創造のストーリーが「偶然に反物質より物質が多かった」と言う安易な根拠だったり、数百億年の時を越えた宇宙の物質が陽子崩壊してないのはいいのかなと思ったり(そもそもこの物語の物理体系が陽子崩壊を予言しているか不明、且つ隣接宇宙間では時間軸は非連続かもしれないが。そう考えると情報の寿命は陽子寿命より長く成り得るのか…)、超紐の論文から着想を得ている高次元極小ワームホールの量子論がクォーク・レプトンのレベルをあまり説明してない(カラー荷の生じる理由や重力生成原理などが見当たらないが見落としただけ? あと高次宇宙の素粒子では次元がどう折り畳まれているんだろう? 無限次元の場合は?)など、稚拙ながら量子力学を学んだ身からすると多少気になる点もあるが、そう言う細部を突っつきたくなる衝動自体がこの本にあてられた自己の防衛本能であるかも知れず、発刊時点での最新物理学をきちんと踏まえて論理的に構築された世界はそうした多少の矛盾点を加味してもその価値は全く衰えることがない。
たまに本を読んでいると「これくらいの話なら自分でも書けそうだ(もちろん現実に書けるわけではない)」と思うことがあったりするが、この本を自分が書けそうだ等とは中性子の欠片ほども思えないのである。